月が綺麗 校舎を出た時には、もうすっかり夜になっていた。 応接室でいつものように風紀委員によって上げられてきた各種報告書類に目を通している間に、すっかり遅くなってしまったのだ。 こんな時間だというのに、まだ音楽室からはエチュードが聴こえてくる。 彼が放課後音楽室を勝手に使用することを黙認してやったら、こんな風に時々雲雀自らが追い出さなくてはならないほど遅くまで時間を忘れて没頭している。 もっとも時間を忘れて没頭していたのは雲雀も同じようなものなので、あまり他人のことを言えた義理ではないのだが。 「鍵、閉めるんだけど」 ガタンとわざと音を立てて音楽室の扉を引いた。 その音にピアノの音が途切れるのを、心のどこかで残念に思うのを他人事のように観察する。 わざとドアの音を立てたのは、あのまま音が途切れなければ、黙って聴き続けてしまいそうな自分がいることを知っていたからだ。 「ん、ああ……もうそんな時間か」 ふぁぁ、と獄寺隼人は大きく伸びをした。 「閉めるよ」 そんな呑気なようすに少しいらっとして、手元の鍵をちゃりんと鳴らせば、 「うわ、お前、待てって!」 慌てて、でも慎重にピアノの蓋を閉めて、カバンを引っつかんで飛び出してくる。 うん。それでいい、となんとなく雲雀は思う。 校内の鍵はもう全て掛けられて、後は二人が出て行く昇降口を残すのみだ。 一緒に歩く理由はない。 けれど、離れて歩く理由もない。 否。 群れるのが嫌いという離れて歩くには十分な理由がある以上、こうして一緒に歩いているのには理由があるのだ。 昇降口から、校門まで。 人気の絶えた夜の学校では、その僅かな距離さえも、とても長く感じられる。 ふと目線を上げれば、西の空には細く冴え冴えとした金色の三日月がかかっていた。 「月が、」 「ん?」 「……月が、綺麗だ」 するり、と。 その言葉が、唇からこぼれた。 「ああ、………死んでもいい、………」 同じ三日月を見つめて。 静かに、獄寺が呟いた。 それきり。 互いに、何も言えなかった。 月が綺麗ですね、と訳したのは夏目漱石。 死んでもいい、と訳したのは二葉亭四迷。 その昔、「愛している」という言葉が、日本になかった時代の話だ。 |
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